巷(ちまた)の学校blog

学校等では教わらなかったことを学び,賢い市民生活(家庭,仕事など)を営むためのブログです。ビジネスにも役立つかも。時には,就職や小論文にも言及。

(ちょっと寄り道)Gotoキャンペーン!その最中(さなか)に起こっていることは?

11月18日記述。入院する前々日に書いて,土曜日にアップしようとしてものです。今なら,まだ時期を逸していないかなと思いまして,敢えて……。

 

 行政(国及び多くの都道府県)の「withコロナ」「コロナ禍」での方策は,かつて叫ばれた『医療崩壊回避』ではないように思うのは私だけだろうか?

 

コロナ対策のGotoキャンペーンは,7月下旬から始まった。その後に,第二波の兆候が表れ,8月にピークが訪れた。

第一波と第二波の間に行なわれたことを思い出すと……。

 

経済活動停止の影響が多くの業種に出たことの反省として,特に,観光業や飲食業にカンフル剤の必要性が政治・行政から叫ばれた。持続化給付金や家賃支援給付金が「焼け石に水」だったことからすれば,当然かもしれなかった。

また,マスクや消毒薬や感染用防護服の不足状態からの解放。関連して,医療従事者に感謝する報道がマスコミに溢れた。

 

しかしながら,ほとんどが感謝だけに終わってしまった。何度も波が押し寄せるという感染症の専門家?の指摘がありながら,無症状や軽症者のために自宅やホテルを利用できるようにはなったが,医療崩壊を防ぐための方策は採られなかった。大病院であっても,収支や人員を無視して医療体制を変えることなどできない。限りある人員や施設をやりくりして,少々増床するのがやっとである。

コロナに対する不安感は,医療崩壊回避でなく検査体制の充実に向かってしまった。第一波で医療崩壊を起こさないために,検査数を減らしているのでは?という疑念が生じていたからかも。

それでも,第二波は比較的症状が軽く,重症化しにくい?と言われる高齢者でない方々の感染で,ピークを超えることができた。それは,単に運が良かったにすぎなかった。そして,『医療崩壊回避』は忘れ去られてしまうのである。

 

第三波にさしかかっていると言われる現在,重病者に対応できる医療体制が以前とさほど変わっていないにも拘らず,重病化しやすい高齢の罹患者が増加している。

第一波と大差ない医療体制でありながら,医療崩壊を回避するための方策は出されないままである。そして,Gotoトラベルはコロナの地方拡散を招くとともに,地域内での蔓延をもたらし,脆弱な地方の医療体制の崩壊を招くであろうことが明らかである。

にも拘わらず,経済を回す?ためにGotoを推進している。もし,withコロナを標榜するのであれば,医療崩壊回避と経済政策を同時に展開しなければならないはずである。少なくとも経済を回す?方を抑制しなければならない。

それをしないためには,個々人に感染防止対策を呼び掛けて,行政のアリバイ作りをして,結局感染者に責任を押し付けるしかないのである。

しかしながら,このやり方は,失敗に終わるであろう。なぜなら,(今ではマスコミも触れない)感染経路不明者率が第一波・第二波の比ではないからである。その結果は,真の意味で【withコロナ】の到来である。そして,それは安全かつ長期の免疫力をもったワクチンが開発され,日本国民だけでなく,全世界の人々に接種されるまで続くであろう。

 

<蛇足>

行政はなぜ経済を回す方策に邁進しようとするのか?

その理由は,一年以内に迫った衆院選挙のためであるという指摘がある。医療崩壊を回避しても票を獲得できないが,経済を回す?ことができれば票を獲得できる。もしその指摘が真実だとすれば……。

 

これは本日12月2日朝に知ったことですが,通販の送料にもコロナ対策?として補助金が給付され,無料になっているとのことです。残念ながら,<蛇足>を裏付けるものの一つかも。

 

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人生,二度目の入院(1)「学び」がなく,申し訳ありません🙇

お休みして申し訳ありませんでした。以下はその事情です。

 2020年11月20日の夜,目が覚めた。時計を見ると,21日になって30分が過ぎた頃でした。いつもと同じようにお腹が張った感じ。また来るかもと思いながら,最近はそれほどの激痛もなく,2時間ほどで治まり,また眠ることができるだろうと。

 病院で処方された薬を飲んだ。いつものように上腹部に痛みが徐々にやってきた。やがてそれは,これまで体験した最大級並みの激痛に達した。すでに,全身汗だくに。

 薬を飲んだから,それもやがて治まるだろうと思っていたが,激痛は治まるどころか,未知の領域にまで達しそうな勢いである。

 隣で眠っていた妻も異様な気配を察して,「大丈夫?」と声を掛けてくれた。私は「大丈夫でない,もう治まってもいい時間なのに治まらない」と。

 「救急車呼ぶ?」との質問に「その方がいいかも!」と答えるのが精一杯だった。

 以前,激痛の時に,119番に電話をする直前までを経験していたので,妻はすぐに電話をした。その電話のやり取りが夢現(ゆめうつつ)に耳に入って来た。

 いつの間にか,救急車のサイレンの音が我が家に近づいて来るのが聞こえたような気がした。

 妻が私に「来たよ,行こう。これを着て。」と声を掛けた。それに促されるままに,何かを羽織って,運動靴を履いて自分の足で救急車に乗り込んだ。この間も私は激痛に耐えていた。

 

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農家の出は「売り物」(2)? 農家の歴史(昭和~)

天候に左右されるのは,どのような作物を作っていようとも,農家の宿命でず。

稲作に機械が導入されてからは,その部分の労働からは解放されることになりましたが,本来農業自体が人手を要するものであり,生活様式の変化や農業機械の導入等により,現金が必要になり,長時間労働だけでなく,出稼ぎまで。

始めのころは農閑期だけだったはずがやがて通年になる農家も。

高度経済成長?は,その結果として農家の主要な労働力を奪うことになりました。

自営業者が建設作業員や工場労働者になるのですから,そのたいへんさは想像に難くありません。生活が別々になれば,お互いを気遣うことも薄れることも。

農家はその内から瓦解することもあったようです。

 別の角度から眺めると,第二次世界大戦後の食糧不足を乗り切るには農家の存在が不可欠でした。戦前からあった食糧管理制度を改変して農家を助成?し,同時に,農家の多くは選挙の集票マシーンとなりました。前者を「御恩」,後者を「奉公」ということもできそうです。こうして,政治と農家との癒着が始まり,時を経て,それはさらに強固になっていきました。

 やがて,コメ余りが進んで食糧管理制度が不要な段階にあったにも拘わらず,それが維持され,この制度は改正されながらも戦後50年以上も生き続けました。廃止後も,補助金助成金という形に名を変えて,政治と農家の癒着は続いていたようです。

<これからは私の勝手な推測ですが……>

補助金助成金は農協に委託・再委託されて,各農家にバラ撒くのに際し,手数料等の名目でまた多額の金銭を懐に入れることができましたが,農家へのそれらバラマキがなくなって,農協の力は衰え,現在の合併に繋がることに。

委託・再委託の構図は,今のコロナ対策におけるものと同一です。

 今日の農家はどんな情況なんでしょうか?

農地を借りて稲作を進める農業法人?などもあるようですが,それも補助金等が一定規模の稲作農家のみに支給されることに対する方便に過ぎないとすれば……。

昔?どなたかが

「農家をダメにしたのは,補助金だ」

「農家をダメにしたのは,農協だ」

とおっしゃったことを思い出しました。

 このような半世紀余りの歴史を有する農家,その出自を売りものにする感性に

「品のなさ」

を禁じえないのは,私だけでしょうか?

 

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農家の出は「売り物」(1)? 勲章を持った方を,わずかながら目にすることも!

私の出身は,秋田県です。農家の出ではありませんが……。

父の実家は農家でした。以下は,その話です。

<父の兄(私にとっては伯父)が後を継ぎ,その後,その長男が後を継ぎました。

しかしながら,今は実質的には農家ではありません。それは,年齢等によることと,後継者がいないからです。

私が知る限り,かつて機械化される前の農業の労働は,過酷でした。農繁期には人手が足りず,一族である分家した親戚が手伝いにきたように思います。

その地区のお年寄りは,特にお婆さんは皆一様に腰が曲がっていました。>

 

現在私が住んでいる地域は,かつて農業の盛んな地域だったので,そんな方を見かけることがあります。

私は,それを

勲章を持った人

と称しています。

また,炭焼きの労働に従事した方も,同じような勲章を持っていることを,後に知りました。

すべて過酷な労働に長時間従事した結果です。

そのような勲章をお持ちの方も少なくなってしまいました。

  

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変が,変でなくなりそうな語用の誤用?

<「馬から落馬」式だけではない誤用の例>

お店の入口に,

「入店には事前予約が必要です」

➡  ~ 予約が必要です

 <そうではない例>

「(メールで,~して頂くのは)可能でしたでしょうか」

                ➡ 可能でしょうか

 

「(~して)頂いてよろしかったでしょうか」

➡(~して)頂けませんか 

      頂いてよろしいでしょうか

 

<『方(ほう)』って何?>

被災者がTVのインタビューに応えて,

「ひとまず安心の方,させてもらっています」

 電車の車内放送で,

「警報の方,確認できましたので,運転の方,再開致します」

方(ほう)には,分野・部門を漠然と指す,また,指し示すものをあいまいにするために使うとい語用も(デジタル大辞泉

 <大人の責任の例>

幼い子供たちの集団が食後の挨拶に,みんなで

「おいしいでした」

➡ ごちそうさまでした

 

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素朴な疑問「%の不思議」(2)

 どこかの大統領が大方の世論調査結果をひっくり返して,当選したのは4年前でした。当選した方は「フェイクニュース」なる言葉で,その国のマスコミを揶揄していました。

 その調査数が気になりましたが,その数はわからないままに……。

 わが国でも,世論調査が行われ,最近発足した内閣の支持率は,60%,70%とも……。

 しかしながら,その調査数は1,500に満たない程度の回答者からの結果です。その数字は,統計学に基づき,科学的根拠を有しているとはいえ,信頼していいものでしょうか?

 例えば,1000人のうち600人が支持し,400人がそうでないと言えば聞こえはいいのですが,1000万人のうち600万人が支持し,400万人がそうでないというと,印象が変わってしまうのは私だけでしょうか?

 上記に対し,こんな%の使い方もあるようです。それは,我が国の小選挙区制度では,国会において,ある政党の全国での得票率は40%に満たないにも拘わらず,議席は70%近くを占めているとの指摘があります。この数字の妙に,私は変な親近感を覚えてしまいました。

 

後者の例えは,あまりよくありませんでしたが,ここでは純粋?に

「%」に潜んでいる『虚』に惑わされる危険があることを,

「%」を目にしたとき,耳にしたときに,

思い出しましょう。なお,マイナンバーカードの取得数は忘れてしまいましたが,取得率は20%に満たないという「%」には,残念ながら?疑問を挟む余地はなさそうです。

 

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素朴な疑問「%の不思議」(1)

「パーセント」って,数字の魔術?人間の感覚を麻痺させる?と思うのは私だけでしょうか?

 今話題の新型コロナ。死亡率=死亡症例数/感染症例数✖100

 日本では低く,0.1%です。ある国では,感染症例数を重症者に限っているため,死亡率が10%にも。分母により,パーセントの数値は大きく変化することが解ります。

 そこで,1%について,分母を変えてみましょう。

 100人なら1人,1000人なら10人,1万人なら100人・・・

 1億人なら100万人に。

 10%について,同様に。

 100人なら10人,1000人なら100人,1万人1000人・・・

 1億人なら1000万人に。

 にも拘らず,私はいつごろまでか,1%や10%では,それほどでもと思っていました。しかしながら,ある時それが100万や1000万になることに思い至るようになって,愕然としました。例では「人」でしたが,もちろん金銭に置き換えることもできます。

100兆円の国の一般会計の1%といっても,その額は?

*国家予算に興味のある方は,特別会計をお調べ下さい。

 

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「コロナか」の「か」は「禍」か「下」か?

 コロナについてのこれまで変遷は,おおよそ次の通りでしょうか!

新型コロナウイルス ➡ ②新型コロナ? ➡ ③withコロナ

➡ ④コロナ「か」

  「禍」は,ご存じのとおり,「わざわい」です。

 それに対し,「下」は「他からの影響を受けるところ」(大辞林

 

 報道で「コロナ『か』では」「コロナ『か』において」という言葉を聞いた時に,私は「下」を思い描いていたのですが,TVで「禍」と表記されていることに驚きました。

 私は「戦時下」と同様に「下」と表記すべきではないかと考えまました。

 その理由は以下のとおりです。

 「下」の「他」とは,コロナのことです。もし,「禍」なら「わざわい」で完結すべきでしょう。少なくとも「コロナ禍」の後には,「わざわい」の克服とか対処の方法等が続くことになると考えたからです。(反証も可能ですが)。

 そして,「禍」は前述の①②の時期なら,当てはまることでしょう。

 しかしながら,コロナとの共存する道を選択した③④の時期には「下」とすべきではないかと考えるからです。

 

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with コロナと経済活動(2)高齢者は観光業の主役!

 それでは,高齢者を取り巻く医療・経済環境を概観します。

 医療分野におけるコロナ対策は,「PCR検査を増やす」と言ってから,もう半年が経とうとしていますが……。保健所経由は絞りがかかって,かつ,遅い。少なくとも民間の検査よりも遅いようです。

 また,感染者数の減少や軽症者の増加についての報道に目を奪われがちですが,高齢者は同時に重症者数と死亡者数にも注目しているのではないでしょうか?そして,そのほとんどがTV視聴者です。そのTVが,コロナの危険性を強調しているように思うのは,私だけではないでしょう。

 このような現状では,高齢者の旅行マインドが冷えざるを得ない,それどころか,すでに凍り付いているのかも知れません。

 経済を回すためには,高齢者のそれを融解させる方策しかありません。

 

 その善悪は別にして,高度成長期の消費マインドを取り戻すべく,デフレマインドからの脱却を目指した長期政権が,それを果たせずに匙を投げたのはつい先日です。

 

 国民のマインドを変えることは容易なことではありません。それが,高齢者であればなおさらでしょう。国民のマインドをコントロールすることは至難の業です。少なくとも,高齢者の旅行マインドを復活させるには,金融や経済政策だけではないことが明らかです。また,Go toキャンペーンは,カンフル剤に過ぎず,高齢者の旅行マインドは凍てついたままです。

 

 経済を回すためには,高齢者が旅行に出かけても安心な体制を作ることです。宿・交通機関・観光地においてはもちろん,もし感染した場合にも,長期の入院や死に至ることがない体制を確立するしかありません。

 と同時に,それまで,観光業が生き残ることができる程度の経済的支援を。

 

<番外> ← TV等ですでに大きく報道されているので。

 Go toトラベルは,35%の割引率のゆえに高額な旅行に効果を発揮しているようです。しかしながら,経済的基盤の弱い中小には恩恵がないようです。このままでは,業界再編や新たな分断をもたらすことに。

 

 以上が,withコロナと経済活動の両立についての一面です。

 

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with コロナと経済活動(1)両立は可能か?

 問いに対して,私は可能と答えます。

 ただし,両立とは5対5など,同じ割合ではないことが前提です。両立といっても,必ずしも同じ割合を意味しないのではありませんか?たとえ9対1でも,両立と言えます。両立の話は,結論で述べることにします。

 「with コロナ」は,コロナ下(禍ではなく)と言うことにします。

 「経済活動」は,経済を回すとでもしましょう。それでは,今現在,経済は回っていないでしょうか?その答えは,否です。新型コロナウイルスによる重症者や死亡者がマスコミで取り上げられる前と現在とを比較し,日常生活が大きく変化した方の数は,実はそれほど多くはないでしょう。また,公表されている解雇や倒産はそれほどでもありません。しかしながら,それがこの問題を難しくしていると言えそうです。

 Go toキャンペーンの対象の,観光業(それに関連する食材等の提供者を含む)を例に考えます。なお,一部を除き,その経営基盤は脆弱です。

 それまでの観光業は,旅行に費やすお金を持っている高齢者とインバウンドによって支えれてきたといっても過言ではないでしょう。

 インバウンドは,新型コロナウイルスの世界的流行により,有効な治療法やワクチンが提供されない限り,復活は望めません。

 しかしながら,日本に在住して旅行する高齢者は事情が異なります。高齢者が旅行を控えているのは,重症化しやすい,あるいは重症化しやすい疾患を抱えているからです。高齢者のそれは,マインドによるもののようです。もし,毎年流行するインフルエンザ程度の症状なら,ここまで旅行を躊躇することはなかったでしょう。

 高齢者以外は,解雇の憂き目に遭わないように,以前にも増して仕事に邁進するしかありません。そして,仕事帰りにちょっと一杯,二杯,三杯……程度で,飲食業の分野に貢献する……。

 以上から,現在,裾野が狭い観光業の分野で経済を回せるのは,高齢者しかいないのです。

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with コロナの中,ソーシャルディスタンスは可能か?

 ソーシャルディスタンスなるものが,声高に叫ばれてから久しい。そして,その有効性についても,支持するものばかりです。

 しかしながら,現実にそれを確保することが困難なことに多くの方が気づいているはずです。

 通勤途中の車内でそれが無理なことは明らかでしょう。

 お店や会議室など,席が動かない場面では可能でしょうが,同じく席の移動がないディスクでのお仕事が中心の方で,それを確保している方が何人いらっしゃるでしょうか?

 学校の教室で着席している場面では可能でしょうが,休憩時間にはできるでしょうか?

 コロナ対策としてのソーシャルディスタンスは,不可能なのです。そして,濃厚接触者にならざるを得ません。その意味で,職場でも,教室でもマスクの着用は不可欠になります。

 

 視点を変えて,飲食店に友人と二人で入って,マスクをしていない場面を考えてみましょう。

 四人掛けのテーブルで,対面の席を避けて斜めにずれて着席し,テーブルには透明のボードがあったとします。対面に着席したときよりも少し声は大きくなります。また,会話は相手を見ながらするものです。ボード越しに相手を見るのは会話を成立し難くしますので,顔の位置をずらしてボード越しでない位置で話をすることになります。会話が盛り上がれば余計に……。

 飲食店での対面着席回避や仕切りの透明ボードは,無力なのかもしれません。

 そうだとすれば,濃厚接触者の判明及びPCR検査は,一刻を争うといことになります。

  来るべきwith コロナ&インフルの時期に,PCR検査数を増やすだけで機動的な対応ができるかどうか,不安を覚えずにはいられません。

 

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「頑張れ」「頑張って」は,禁忌(タブー)か?(2)

(1)の続き

 生活様式の変化は同時に多様化でもあります。そうすると,言わなくても共有できた部分が減少あるいは無くなってしまうことになります。これまでの日本語とは逆の方向,つまり,言わなければ伝わらない事態が生じることは当然なのかもしれません。

  「頑張れ」は,(口語のラ行五段活用の)命令形で,今日的な日本語感覚であれば,頑張っている人に対して,「ガンバレ」,「もっとガンバッテ」と言えないことになり,「頑張れ」「頑張って」と言うことは,タブーということになるでしょう。

 しかしながら,このような結論には,疑問を禁じえません。

 「頑張れ」「頑張って」を単なる応援・声援と言うことはできないでしょうか?そう言えない方のために,省略されている語を補って考えてみましょう。例えば,「(私も応援・声援で頑張るからあなたも一緒に)」や「(あなたの実力はそんなものではありませんから)」が省略されていると考えることはできないでしょうか?

 このように考えると,頑張っている人に対して「頑張れ」「頑張って」と言うことは,必ずしもタブーとは言えないようです。もちろん,省略されている語句が解らない方にとってはタブーになります。

 とはいっても,生活に共有部分が無くなる方向に進み,多様化が固定化した社会において,やがて日本語の省略部分を補うことができない時代がやってくるでしょう。

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「頑張れ」「頑張って」は,禁忌(タブー)か?(1)

 

 頑張っている人に対して,「ガンバレ」は失礼では?「もっとガンバッテ」と言ってはいけないのでは?

という疑問や指摘に対して,それなりの方がなんら反論してこなかった結果,最近では,「ガンバレ」「ガンバッテ」の声が聞こえなくなってしまいました。

  前述の疑問・指摘は,若い方に端を発していたように記憶しています。そして,若くない巷の多くの方は,前述の疑問にそう簡単に答えることはできないかもしれません。しかしながら,そうやってきたんだから,タブーでもなんでもないと反論できたにも拘わらず,それもしませんでした。

  それは,日本人の言語感覚が変化しつつあることが理由です。

 農村で生まれ,親類はもちろん水の供給を始め,その多くが共同・協力の上に成立する第1次産業と命名される以前から,脈々と続く生活様式があり,その中で日本語も育まれてきたことと大いに関係しています。

  あらゆる言語は,一面において簡略化の歴史を有しているといっても過言ではありません。島国であった日本における言語は,純粋培養の極致にあったと言えそうです。

 歴史的にも長期にわたって同じ生活様式を続けると,言わなくても共有できる部分を省略することが無意識のうちに行なわれながら,日本語は使われることになります。 その結果,「コトバ」は事(こと)の端(はし)から生まれ,やがて「言葉」という漢字まで与えられるのことになったようです。

 明治維新後,軍事力増強の一環として,それまでの私塾に代わり,国策としての学校が誕生し,日本語の標準化・共通語が図られるようになりました。それと軌を一にして,第1次産業からの人離れが始まり,大正末期から昭和初期には,ある資料によりますと,その人口割合は50%前後です。その後の敗戦後から近年にかけては,ご存じのとおりです。

 このような生活様式の変化は,同時に日本語の変化をももたらします。誤解をおそれずに言いますと,同じような生活様式が失われた結果,「コトバ」は事の端から,コトそのものにならざるを得なかったのです。

(2)に続く

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自粛と自由(3)与えられた自由と勝ち取った自由の違い!

 自粛とは一面,自由でなくなる,不自由になることです。

 しかしながら,多くの日本人は,いとも簡単に自由を手放して「自粛」なるものに。他人の迷惑にならないように,現在では自分が誰かを新型コロナウイルスに感染させてはいけないから,といった理由で。

 本来,自由とは他者とぶつかり合うものではなかったでしょうか?他人に迷惑をかける一面を持っていなかったでしょうか?そして,それを調整するのが議会の多数決という手法,裁判所の存在理由ではなかったか?

 これらの自由をどのようにして獲得したかについては,ご存知のとおり,ほとんどが「力」によって,自由を勝ち取ったのです。

 それに対して,日本は?

明治時代には,立憲君主制のドイツを真似て,与えられた自由。

昭和には戦勝国から与えられた自由。

 自由を権力者から勝ち取った国民の自由に対する思いを,与えられた自由の味しか知らない日本国民が理解できないことは当然かもしれません。

 しかしながら,ちょっとの想像力で……。

 こればかりは「ちょっと」では足りないのかもしれません。何せ,いとも簡単に「自粛」ができるのですから。

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自粛と自由(2)「自粛」が市民権?を得た日

それは,昭和天皇崩御の前後ではなかったでしょうか?

プライバシーを重要視することは,共同社会のささやかな抵抗か?

 TVの番組編成,その後のネット社会でも,著名人のプライバシーが白日の下に晒されることは珍しくありません。何もそんなところまでと,思わず目を背けたくなるような,耳を塞ぎたくなるような内容まで。

 そして,それらが真実かどうかは藪の中にも拘わらず。

 しかしながら,これらが今日のプライバシー観に影響した,より強固にしたとは言えても,基になったとは言えないように思います。

 その昔,「家の恥」を世間様に晒すことは,親類縁者を含め,厳禁でした。

 今日,さすがに親類縁者には当てはまらないかもしれませんが,今でも「家族?の恥」などに変えて,核家族の中でも,「恥」の意識が脈々と流れているような。

 つまり,日本人にとっての「恥」の意識が「プライバシー」という語に置き換わったように思います。

 こんな事件が。近年ありました。

 農水事務次官をご退職なさった父親がお子さん(40歳くらい?)を殺した事件です。動機には,父親の手に負えない,役立たずの……。また,自分が殺されるかもしれないとの報道も。

 いずれにしても,多かれ少なかれ「恥」の意識があったことでしょう。 何より驚いたことは,そのような家族の状況を,ご近所の方がほとんど知らなかったということです。

 視点を変えれば,その父親は公的には順調?でも,私的には不調。子との付き合い方だけでなく,ご近所との付き合い方にも問題が……。それらには「恥」の意識の関与があったように思います。

 「恥」と結びついた「プライバシー」について,その扱いには日本的な観点が必要なのかもしれません。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>