「丁寧に説明~」
当然,国民に解るように説明してくれると,誰もが思います。
しかしながら,「丁寧に説明」というフレーズが発せられた途端に,まるで丁寧な説明」が終わったかのよう,今「丁寧に説明」した様相を呈することになってしまいました。
同じ言語を使用していながら,両者が同じイメージを共有できない状況は,どうして生まれてしまったのでしょうか?
その理由は,同じ言語を使用していながら,世界が異なるからです。そして,言葉の持つ意味も,言葉から生まれるイメージも異なるのです。
そうだとすれば,国民?とは違う世界で生活しているにほかなりません。国民のためにあるはずの民主主義の諸制度,国会の議員や行政の担い手が国民と異なる世界に生きている。
こんな状況の国に生まれたことの不幸を嘆いていても始まりません。そして,そのような国にしてしまったのもまた国民だからです。
食糧の不足を補うつもりが,物質的な豊かさ,便利さまでを追求した結果なのかもしれません。
足るを知る(自己探求の意でなく),を忘れて,貪欲に金銭的欲求に明け暮れた結果かもしれません。
お上から押さえつけられることに慣れ過ぎた民が,箍(タガ)が外れてその進むべき方向を間違えたとも言えそうです。
新たに築く時期がありました。方向を是正できる機会もありました。前者は明治維新で,後者は敗戦後です。しかしながら,前者の時期には,多くの国民が無知?,後者の機会には,多くの国民が貧困に喘いでいました。
今後,共通の言語を使用しながら,言葉の共有に向かうのか,一層の乖離に進むのか?私には判りません。
お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>