巷(ちまた)の学校blog

学校等では教わらなかったことを学び,賢い市民生活(家庭,仕事など)を営むためのブログです。ビジネスにも役立つかも。時には,就職や小論文にも言及。

「結婚相手に選んではいけない人」(年収でも価値観でもない)たった1つの要素!

 以下は,プレジデントオンライン提供記事のほぼほぼコピペです。最後に≪私感≫を付け加えました。

 結婚相手にはどんな人を選ぶといいか。フリーライター鶴見済さんは「人間関係は『おたがい対等』という意識がどちらかに欠けていると,喧嘩に突入しやすい。結婚相手にけんかが起きやすい相手を選んで,わざわざ不幸になることはない」という――。

※本稿は,鶴見済人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。

一緒に暮らすなら,けんかの数とダメージの少ない相手を

 結婚する相手や一緒に暮らすパートナーを選ぶなら,何を基準にすればいいだろうか?

 これもまたあまりにも大きな問題だ。年収だ,価値観が合うことだなどとよく言われるが,ここで自分が言いたいのは少し違う。特にメンタルが強くない人には,別の基準が必要だ。

 つまり他の何よりもまず,けんかをしない相手を選ぶことだ。

 この世で一番嫌な人物とは,けんかをしている真っ最中のその人だ。もともとその人がどんなにいい人でも,けんかをすればそうなる。何しろ近い場所から,こちらにダメージを与えようとしているのだから。

 そして一緒に暮らしていて,まったくけんかをしないなんてことはまずない。それなら外見や収入より,何よりもまず,けんかの数が少なく,そのダメージが小さくて済む相手を選ぶべきなのだ。一緒に暮らすというのは,そういうことだ。

一度けんかが起きたら,途中で切り上げる

 具体的に言おう。自分も相手もけんかなどしないタイプだと思っていても,他のことでイライラしている時はいくらでもある。

 そんな時に相手がごみを出し忘れたなど,ほんのささいなきっかけがあれば,口論は始まってしまう。

 「そっちだって掃除をしない時がある」「それなら,そっちだって」などと言い合っているうちに,最初は予想もしなかった大ごとになってくる。そのまま「別れる」まで行ってしまうことだってあり得る。

 だからこそどこかで,エスカレートしているやりとりを切り上げられることが大事なのだ。自室に行く,外に出るなどして,きっぱりとその場を離れてしまうのがいい。

 ここで「もっと言い返してやりたい」という気持ちを抑えるのは,誰にとっても大変なことだ。けれども,その努力もしない相手は選ばないほうがいい。

 そして次には,たがいに口をきかない沈黙の段階が来るだろう。けんかの大きさによっては,数日は続くかもしれない。この段階もこの上なく気分の悪いものなので,無駄に長引かせないことが大事だ。

 そんな時に話をせざるを得ない何かのきっかけが訪れて,もとに戻って終了。けんかとは大体こんなところではないか。

 この過程のすべてが,メンタルが強くない人にとっては不快極まりないものだ。共同生活の居心地の悪さは,このけんかの多さ次第で決まってしまう。

 何よりもまずは,このけんかの発端を軽々しく作らないこと。そして一度けんかが起きたら,意地にならず途中で切り上げること。何よりもこれらを心がけられる相手を選ぶべきだ。

人に向けるのは「好意」にしておく

 人間関係の法則について書く以上,どうしても書いておきたいことがある。それは,「人間関係では,人に好意を向ければ好意が返ってくるし,悪意には悪意が返ってくる。だから人に向けるのは好意にしておいたほうがいい」ということだ。

 これはこの上ない深みを持った法則なのだ。ここに関する意識が薄い人ほど,けんかを軽々しく始めてしまう。

 このことは,古くからある人間の贈り物の文化の研究のなかで,とても大きなテーマになっている。我々は何かを貰ったら,どうしてもお返しをしてしまう。それに対してまたお返しをするという連鎖が起きる。「互酬」という難しい名前がついている。

 そして悪意を向ければ悪意が返ってくることまで,この習性に含める専門家もいる。たしかに「お返し」という言葉には,日本語でも英語でも「やり返す」「仕返し」の意味がある。

 嫌なことをされたら,同じくらいやり返すとまではいかなくても,好意を向けるのはやめるだろう。こうして今度は悪意の連鎖が起きる。この習性もまた,我々が骨身に染みてよく知っている。だからこそ,軽々しく“開戦”をするのは罪深いことなのだ。

 言い方を変えてみよう。もしあなたが人がいいなら,こちらを尊重しているわけでもない相手に,どこまで好意を与え続ければいいのか迷うこともあるだろう。そんな時の目安は,相手が悪意を向けてきたかどうかだ。

 悪意を向けられているなら,好意を返さなくていい。そこまでいい人にならなくていい。人間の尊厳はこのようにして保たれるのだ。

対等の意識が薄いほど,けんかに突入しやすい

 好意も悪意も含めた「お返し」の法則は,我々の誰もが対等であり,特別に偉い人などいないというもっとも大切な原理の表れである。

 基本的人権という概念が欧米から入ってくる前に,どんな考え方がその代わりになっていたのだろう? それがこの「対等」という考え方だと思うのだ。もちろん身分や差別があるなかでの,まるで不完全なものだったけれども。

 基本的人権はわからなくても,「自分が人にされたくないことを,他の人にもしてはいけない」なら子どもにもわかる。これもまた対等の原理だ。

 悪意の連鎖を起こさないために,けんかを軽々しく始めないこと。そのきっかけを作らないよう最大限の注意を払うこと。それがいかに大事なことか,ここからもわかるだろう。

 「いい天気ですね」などと話しかけても,相手には情報としてなんの価値もない。それなのにどうして身近な人にそんなふうに話しかけるのか。

 やはり人は近くで生きている以上,自分に敵意がないことを示して好意の連鎖を起こしたいのだ。だからそこで好意を返さずに無視をしてはいけない。

 「おたがい対等の原則」への意識が薄いほど,自分の怒りやこだわりのほうを重視して,けんかに突入しやすい。

 結婚相手,パートナーは,そう簡単には切れない関係を結ぶ相手のなかでは,自分で選べるほとんど唯一の存在だ。けんかが起きやすい相手を選んで,わざわざ不幸になることはない。

 すべての人について,そこを評価の第一の基準にしてもいいくらいだ。

相手を傷つけるのは近すぎる距離

 日本は実は世界でも有数の,夫婦が同居するのを当たり前だと思っている国だ。ある調査では主要37か国のなかで日本は,一番夫婦の別居率が低かった(※1)。

 けれどもそこにも,もうこだわらなくてよくなってきている。

 かく言う自分も,もう15年以上もパートナーと二人暮らしをしている。

 そんな話をすると,「私にはそれができない」と言われることもある。確かにその人は,パートナーがいるのに一緒にシェアハウスに住むなどして,二人きりの同居はしていなかった。

 まわりを見回せば,相手がいても同居をしていない人はたくさんいる。近くだけれども別々に住みながら,いつも行動は一緒にしていたりする。

 確かに自分たちのように,子どももいない二人きりの同居では,向きあう相手はたったひとりしかいない。けんかが起きても,誰かに介入してもらうこともできない。こういう暮らしを怖いと思っても,不思議ではない。

 特に我々の場合はたがいにどこかに通う仕事もあまりしないので,朝から晩まで至近距離にいることになる。三度の食事もたいてい一緒にとる。

 そんな暮らしが15年以上も続いているのだから,これは少し誇ってもいいだろう。なにか長続きするコツでもあったのだろうか?

 しいて挙げるとすれば,あまりちゃんと同居をしなかったことかもしれない。つまり,近づきすぎなかったのがよかったのだ。

 自分の両親の家に行ってみると,確かに自分たちと同じ二人暮らしだ。一日中一緒にテレビを見て,一緒に寝床についている。彼らが生きている世界はひとつだなと感じる。そこがまったく違う。自分たちは,各々別の世界を生きているからだ。

どんな愛情も近すぎれば迷惑

 二人暮らしとは言え,我々は常に別の部屋にいる。夜寝る時も別で,世帯も別。それぞれに別の仕事をしていて,相手が何をしているのかはよくわからないことが多い。人前で相手を呼ぶ時は,たがいに旧姓にさんづけで呼んでいる。

 ただし食事はどちらかをどちらかが手伝いながら作り,食べている。それすらやらなければ,共同生活はまったく別のものになってしまうだろう。

 これを自分の両親のように,もっとひとつの世界に近づけていったら何が起きるかは,少し想像がつく。おそらくたがいが相手に,「もっとこうすればいいのに」と干渉したくなりそうだ。気になって,放っておけなくなると言えばいいだろうか。

 相手を放っておけないのは,決していいことではない。

確かにこれまでは,人の世話を焼いたり気づかったりすることは,無条件にいいこととされてきた。けれどもそれも変わってきている。

 例えば,子どもに親が愛情を注ぐのは好ましいことだ。ただそれが過剰になると,細かいことまで放っておけなくなる。細部まで指図をしては,その通りにやってくれないと不満になる。

 だんだん過干渉という名の虐待になってくる。親が子にあまりに熱心に勉強をさせることは,教育虐待と呼ばれている。

 ここには,人間関係すべてについての決定的な真実がある。それは,

「どんなに愛情をもってやったとしても,あまりにも近づきすぎると,悪意をもっていじめているのと同じことになる」

ということだ。ストーカーを見ればいい。好意か悪意かなんて,そこでは問題ではない。問題は近づきすぎた距離のほうにあるのだ。ハラスメントについても言えるが,我々が直面している加害の問題は,むしろ適切な距離が取れないことから来ているのだ。

 では,「こうしたほうが,絶対に相手の人生は向上すると思えるのに,どうしてもそうしてくれない」という時はどうすればいいのだろう。

 本人がそうしないのであれば,人生が向上しなくても,それはそれでしかたないのだ。そう思ってあきらめるしかない。

 「本人の勝手」とはそのくらい大事なことなのだ。

注目される「前向きな別居」

 最近は,夫婦の「前向きな別居」が注目されるようになってきた。結婚していても別居する有名人が紹介されたり,“別居婚”という言葉が肯定的に使われるようになった。“週末婚”という言葉もよく目にする。

 いずれも結婚の届けは出しても別の場所に住み,時々会うという結婚生活のことだ。

そんな別居のなかでも特に興味深いのが“卒婚”だ。これは結婚はしたままで,別居も含めて夫婦が独立して人生を楽しむ生き方を言う。主に,ある程度結婚生活を続けた中高年夫婦について言われるものだ。中高年の離婚が増えていることとも関連した動きだろう。

離婚すると自殺してしまう日本の男性

 パートナーに生活を依存しすぎないことは,誰もが心がけていなければいけないことだ。

中高年世代が夫婦関係を何らかの形で解消するうえで,問題が多いのは男性の側だろう。

 中高年離婚のほとんどは,妻からの申し出で行われる。中高年夫婦で不満を持っているのは,夫ではなく妻なのだ。

 また日本の男性の自殺率は,失業率ほどではないにしろ,離婚率とも強く相関している。女性の側には,その傾向が見られない。

 もちろん子どもの親権が,ほとんどの場合母親に行くという不利な点はある。とは言え家事全般を妻に頼っているならば,いずれにせよひとりで生きていける気はしないだろう。

 誰もがいずれは,パートナーを失う。そして,その日がいつ来るかはわからない。だからこそ人間は,いくら人と一緒に暮らすようになっても,自立心をなくしてしまっては健康には生きていけないのだろう。

※1 “Work Orientation IV 2015” International Social Survey Programme(ISSP)

鶴見 済(つるみ・わたる) フリーライター 1964年,東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒。複数の会社に勤務したが,90年代初めにフリーライターに。生きづらさの問題を追い続けてきた。精神科通院は10代から。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『0円で生きる』『完全自殺マニュアル』『脱資本主義宣言』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』『無気力製造工場』などがある。

≪一例と挙げて云々し,結論を導くことには問題があることを前提に……。結婚20余年の我が家。子はなく,その間に互いの単身赴任を合計すると数年。たまにですが,私の人権を否定する鋭いロケットランチャーが……。仕事を辞めて,妻の収入で生活させてもらっていた時期がある私は(今もその状態に近い),じっと堪えるのです。幸いなことに,妻は酉年生まれでそんなことがあったことをすぐに忘れてしまい,何事もなかったように次の会話が始まる。結婚前にもそんなことが多々あったような……。それでもこの結婚が決して「失敗」とは思えません。我が儘な私を経済的に支えてくれている妻に「感謝」の気持ちでいっぱいです≫

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>