巷(ちまた)の学校blog

学校等では教わらなかったことを学び,賢い市民生活(家庭,仕事など)を営むためのブログです。ビジネスにも役立つかも。時には,就職や小論文にも言及。

「コロナか」の「か」は「禍」か「下」か?

 コロナについてのこれまで変遷は,おおよそ次の通りでしょうか!

新型コロナウイルス ➡ ②新型コロナ? ➡ ③withコロナ

➡ ④コロナ「か」

  「禍」は,ご存じのとおり,「わざわい」です。

 それに対し,「下」は「他からの影響を受けるところ」(大辞林

 

 報道で「コロナ『か』では」「コロナ『か』において」という言葉を聞いた時に,私は「下」を思い描いていたのですが,TVで「禍」と表記されていることに驚きました。

 私は「戦時下」と同様に「下」と表記すべきではないかと考えまました。

 その理由は以下のとおりです。

 「下」の「他」とは,コロナのことです。もし,「禍」なら「わざわい」で完結すべきでしょう。少なくとも「コロナ禍」の後には,「わざわい」の克服とか対処の方法等が続くことになると考えたからです。(反証も可能ですが)。

 そして,「禍」は前述の①②の時期なら,当てはまることでしょう。

 しかしながら,コロナとの共存する道を選択した③④の時期には「下」とすべきではないかと考えるからです。

 

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with コロナと経済活動(2)高齢者は観光業の主役!

 それでは,高齢者を取り巻く医療・経済環境を概観します。

 医療分野におけるコロナ対策は,「PCR検査を増やす」と言ってから,もう半年が経とうとしていますが……。保健所経由は絞りがかかって,かつ,遅い。少なくとも民間の検査よりも遅いようです。

 また,感染者数の減少や軽症者の増加についての報道に目を奪われがちですが,高齢者は同時に重症者数と死亡者数にも注目しているのではないでしょうか?そして,そのほとんどがTV視聴者です。そのTVが,コロナの危険性を強調しているように思うのは,私だけではないでしょう。

 このような現状では,高齢者の旅行マインドが冷えざるを得ない,それどころか,すでに凍り付いているのかも知れません。

 経済を回すためには,高齢者のそれを融解させる方策しかありません。

 

 その善悪は別にして,高度成長期の消費マインドを取り戻すべく,デフレマインドからの脱却を目指した長期政権が,それを果たせずに匙を投げたのはつい先日です。

 

 国民のマインドを変えることは容易なことではありません。それが,高齢者であればなおさらでしょう。国民のマインドをコントロールすることは至難の業です。少なくとも,高齢者の旅行マインドを復活させるには,金融や経済政策だけではないことが明らかです。また,Go toキャンペーンは,カンフル剤に過ぎず,高齢者の旅行マインドは凍てついたままです。

 

 経済を回すためには,高齢者が旅行に出かけても安心な体制を作ることです。宿・交通機関・観光地においてはもちろん,もし感染した場合にも,長期の入院や死に至ることがない体制を確立するしかありません。

 と同時に,それまで,観光業が生き残ることができる程度の経済的支援を。

 

<番外> ← TV等ですでに大きく報道されているので。

 Go toトラベルは,35%の割引率のゆえに高額な旅行に効果を発揮しているようです。しかしながら,経済的基盤の弱い中小には恩恵がないようです。このままでは,業界再編や新たな分断をもたらすことに。

 

 以上が,withコロナと経済活動の両立についての一面です。

 

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with コロナと経済活動(1)両立は可能か?

 問いに対して,私は可能と答えます。

 ただし,両立とは5対5など,同じ割合ではないことが前提です。両立といっても,必ずしも同じ割合を意味しないのではありませんか?たとえ9対1でも,両立と言えます。両立の話は,結論で述べることにします。

 「with コロナ」は,コロナ下(禍ではなく)と言うことにします。

 「経済活動」は,経済を回すとでもしましょう。それでは,今現在,経済は回っていないでしょうか?その答えは,否です。新型コロナウイルスによる重症者や死亡者がマスコミで取り上げられる前と現在とを比較し,日常生活が大きく変化した方の数は,実はそれほど多くはないでしょう。また,公表されている解雇や倒産はそれほどでもありません。しかしながら,それがこの問題を難しくしていると言えそうです。

 Go toキャンペーンの対象の,観光業(それに関連する食材等の提供者を含む)を例に考えます。なお,一部を除き,その経営基盤は脆弱です。

 それまでの観光業は,旅行に費やすお金を持っている高齢者とインバウンドによって支えれてきたといっても過言ではないでしょう。

 インバウンドは,新型コロナウイルスの世界的流行により,有効な治療法やワクチンが提供されない限り,復活は望めません。

 しかしながら,日本に在住して旅行する高齢者は事情が異なります。高齢者が旅行を控えているのは,重症化しやすい,あるいは重症化しやすい疾患を抱えているからです。高齢者のそれは,マインドによるもののようです。もし,毎年流行するインフルエンザ程度の症状なら,ここまで旅行を躊躇することはなかったでしょう。

 高齢者以外は,解雇の憂き目に遭わないように,以前にも増して仕事に邁進するしかありません。そして,仕事帰りにちょっと一杯,二杯,三杯……程度で,飲食業の分野に貢献する……。

 以上から,現在,裾野が狭い観光業の分野で経済を回せるのは,高齢者しかいないのです。

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with コロナの中,ソーシャルディスタンスは可能か?

 ソーシャルディスタンスなるものが,声高に叫ばれてから久しい。そして,その有効性についても,支持するものばかりです。

 しかしながら,現実にそれを確保することが困難なことに多くの方が気づいているはずです。

 通勤途中の車内でそれが無理なことは明らかでしょう。

 お店や会議室など,席が動かない場面では可能でしょうが,同じく席の移動がないディスクでのお仕事が中心の方で,それを確保している方が何人いらっしゃるでしょうか?

 学校の教室で着席している場面では可能でしょうが,休憩時間にはできるでしょうか?

 コロナ対策としてのソーシャルディスタンスは,不可能なのです。そして,濃厚接触者にならざるを得ません。その意味で,職場でも,教室でもマスクの着用は不可欠になります。

 

 視点を変えて,飲食店に友人と二人で入って,マスクをしていない場面を考えてみましょう。

 四人掛けのテーブルで,対面の席を避けて斜めにずれて着席し,テーブルには透明のボードがあったとします。対面に着席したときよりも少し声は大きくなります。また,会話は相手を見ながらするものです。ボード越しに相手を見るのは会話を成立し難くしますので,顔の位置をずらしてボード越しでない位置で話をすることになります。会話が盛り上がれば余計に……。

 飲食店での対面着席回避や仕切りの透明ボードは,無力なのかもしれません。

 そうだとすれば,濃厚接触者の判明及びPCR検査は,一刻を争うといことになります。

  来るべきwith コロナ&インフルの時期に,PCR検査数を増やすだけで機動的な対応ができるかどうか,不安を覚えずにはいられません。

 

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「頑張れ」「頑張って」は,禁忌(タブー)か?(2)

(1)の続き

 生活様式の変化は同時に多様化でもあります。そうすると,言わなくても共有できた部分が減少あるいは無くなってしまうことになります。これまでの日本語とは逆の方向,つまり,言わなければ伝わらない事態が生じることは当然なのかもしれません。

  「頑張れ」は,(口語のラ行五段活用の)命令形で,今日的な日本語感覚であれば,頑張っている人に対して,「ガンバレ」,「もっとガンバッテ」と言えないことになり,「頑張れ」「頑張って」と言うことは,タブーということになるでしょう。

 しかしながら,このような結論には,疑問を禁じえません。

 「頑張れ」「頑張って」を単なる応援・声援と言うことはできないでしょうか?そう言えない方のために,省略されている語を補って考えてみましょう。例えば,「(私も応援・声援で頑張るからあなたも一緒に)」や「(あなたの実力はそんなものではありませんから)」が省略されていると考えることはできないでしょうか?

 このように考えると,頑張っている人に対して「頑張れ」「頑張って」と言うことは,必ずしもタブーとは言えないようです。もちろん,省略されている語句が解らない方にとってはタブーになります。

 とはいっても,生活に共有部分が無くなる方向に進み,多様化が固定化した社会において,やがて日本語の省略部分を補うことができない時代がやってくるでしょう。

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「頑張れ」「頑張って」は,禁忌(タブー)か?(1)

 

 頑張っている人に対して,「ガンバレ」は失礼では?「もっとガンバッテ」と言ってはいけないのでは?

という疑問や指摘に対して,それなりの方がなんら反論してこなかった結果,最近では,「ガンバレ」「ガンバッテ」の声が聞こえなくなってしまいました。

  前述の疑問・指摘は,若い方に端を発していたように記憶しています。そして,若くない巷の多くの方は,前述の疑問にそう簡単に答えることはできないかもしれません。しかしながら,そうやってきたんだから,タブーでもなんでもないと反論できたにも拘わらず,それもしませんでした。

  それは,日本人の言語感覚が変化しつつあることが理由です。

 農村で生まれ,親類はもちろん水の供給を始め,その多くが共同・協力の上に成立する第1次産業と命名される以前から,脈々と続く生活様式があり,その中で日本語も育まれてきたことと大いに関係しています。

  あらゆる言語は,一面において簡略化の歴史を有しているといっても過言ではありません。島国であった日本における言語は,純粋培養の極致にあったと言えそうです。

 歴史的にも長期にわたって同じ生活様式を続けると,言わなくても共有できる部分を省略することが無意識のうちに行なわれながら,日本語は使われることになります。 その結果,「コトバ」は事(こと)の端(はし)から生まれ,やがて「言葉」という漢字まで与えられるのことになったようです。

 明治維新後,軍事力増強の一環として,それまでの私塾に代わり,国策としての学校が誕生し,日本語の標準化・共通語が図られるようになりました。それと軌を一にして,第1次産業からの人離れが始まり,大正末期から昭和初期には,ある資料によりますと,その人口割合は50%前後です。その後の敗戦後から近年にかけては,ご存じのとおりです。

 このような生活様式の変化は,同時に日本語の変化をももたらします。誤解をおそれずに言いますと,同じような生活様式が失われた結果,「コトバ」は事の端から,コトそのものにならざるを得なかったのです。

(2)に続く

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自粛と自由(3)与えられた自由と勝ち取った自由の違い!

 自粛とは一面,自由でなくなる,不自由になることです。

 しかしながら,多くの日本人は,いとも簡単に自由を手放して「自粛」なるものに。他人の迷惑にならないように,現在では自分が誰かを新型コロナウイルスに感染させてはいけないから,といった理由で。

 本来,自由とは他者とぶつかり合うものではなかったでしょうか?他人に迷惑をかける一面を持っていなかったでしょうか?そして,それを調整するのが議会の多数決という手法,裁判所の存在理由ではなかったか?

 これらの自由をどのようにして獲得したかについては,ご存知のとおり,ほとんどが「力」によって,自由を勝ち取ったのです。

 それに対して,日本は?

明治時代には,立憲君主制のドイツを真似て,与えられた自由。

昭和には戦勝国から与えられた自由。

 自由を権力者から勝ち取った国民の自由に対する思いを,与えられた自由の味しか知らない日本国民が理解できないことは当然かもしれません。

 しかしながら,ちょっとの想像力で……。

 こればかりは「ちょっと」では足りないのかもしれません。何せ,いとも簡単に「自粛」ができるのですから。

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自粛と自由(2)「自粛」が市民権?を得た日

それは,昭和天皇崩御の前後ではなかったでしょうか?

プライバシーを重要視することは,共同社会のささやかな抵抗か?

 TVの番組編成,その後のネット社会でも,著名人のプライバシーが白日の下に晒されることは珍しくありません。何もそんなところまでと,思わず目を背けたくなるような,耳を塞ぎたくなるような内容まで。

 そして,それらが真実かどうかは藪の中にも拘わらず。

 しかしながら,これらが今日のプライバシー観に影響した,より強固にしたとは言えても,基になったとは言えないように思います。

 その昔,「家の恥」を世間様に晒すことは,親類縁者を含め,厳禁でした。

 今日,さすがに親類縁者には当てはまらないかもしれませんが,今でも「家族?の恥」などに変えて,核家族の中でも,「恥」の意識が脈々と流れているような。

 つまり,日本人にとっての「恥」の意識が「プライバシー」という語に置き換わったように思います。

 こんな事件が。近年ありました。

 農水事務次官をご退職なさった父親がお子さん(40歳くらい?)を殺した事件です。動機には,父親の手に負えない,役立たずの……。また,自分が殺されるかもしれないとの報道も。

 いずれにしても,多かれ少なかれ「恥」の意識があったことでしょう。 何より驚いたことは,そのような家族の状況を,ご近所の方がほとんど知らなかったということです。

 視点を変えれば,その父親は公的には順調?でも,私的には不調。子との付き合い方だけでなく,ご近所との付き合い方にも問題が……。それらには「恥」の意識の関与があったように思います。

 「恥」と結びついた「プライバシー」について,その扱いには日本的な観点が必要なのかもしれません。

 

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自粛と自由(1)「自粛」はこうして生まれた?

共同社会(共同生活)の産物?

 例えば,昭和の農地改革までのある地域の農村。農民は共同して稲作を行い,米を収穫してきました。特に,稲作には欠かせない水を確保するための共同作業はいまだに続いているようです。その作業に出なければ,他の人の負担を増やすことになってしまうから,休んではいけない。

 このような生活が「自粛」を生んだと言えないでしょうか?

 すなわち,他者の迷惑となるような行動を慎むという行動様式が日本人に刷り込まれたのです。それは,共同作業から解放され,工場労働者となっても,チームで生産性向上,QCに取り組む体制(換言すれば連帯責任)などに,形を変えて脈々と続いてきたのでしょう。

 そして,近年のサービス業人口の増大は,このような行動様式をやがて崩壊させるかも。

 しかしながら,なんと学校なるところでは,「係り」など称して強固に生き続けているようです。

最後までお読み頂き,有り難うございました<(_ _)>

 

新型コロナウイルスから学ぶ(まとまらないまとめ編)呪縛?からの脱出!

①常日頃,「御(お)上(かみ)」を信じすぎていないか?

 大本営発表ほどとは言いませんが,今日(こんにち)でも,私たちは「御上」を信頼してきたように思います。

 新型コロナウイルスの到来前には,モリトモ・カケ・サクラなど,到来後には,PCR検査・給付金・マスクなど検察庁人事まで,そして,Go toトラベル!

 無(ぶ)様(ざま)としか言いようがありません。これが「御上」の実態なのでしょう。

 もちろんすべてを否定するつもりはありません。しかしながら,各省庁の現場を預かる方々,県や市町村の実働に携わる方々,医療等に従事する方々に,なんとか救われているというのが実態ではありませんか?

 もう,「御上」を信じすぎることは止めましょう!

 

②「多数」は正しいか?

 民主制の決議の方法の一つに「多数決」という方法があります。

 ところが,独裁者ヒットラーを生んだのは,当時最も民主的な憲法下においてででした。つまり,「多数」は「正邪」「善悪」とは無関係なのです。いや,誤解を怖れずに言えば,「多数」ほど「邪」「悪」に陥りやすいものはないのでは?

憲法や法律等は基本的には多数決によって成立し,施行されます。

例えば,合衆国や日本。多数決により,政治は動いていますが……。中国は一党独裁ですが,一応多数決?ロシアは?

 多数の方の国民にもそうでない方の国民にも,法律等は平等に施行されることになります。

 つまり,「多数」を占める方たちは,常に「邪」「悪」に陥り易いことを肝に銘ずる必要があり,もしそうなりそうな場合には,それを阻止するシステムを構築する必要があるのかもしれません。本来は,最高裁判所がそれを担うのでしょうが!

 今回をもちまして,「新型コロナウイルスから学ぶ」を終了致します。また,新たな展開が生じた場合には,「続」編を。それがないことを祈るばかりです。

 

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新型コロナウイルスから学ぶ(続・番外編)単なる悪者か?

新型コロナウイルスは悪者か?

 多数の感染者・死者を出すことになってしまったことは事実ですので,十分「悪者」に値します。

 反面,次のようなことが明らかになりました。

 憲法で保障されている営業の自由(職業選択の自由を確保する)が,法律に基づくことなく,行政により,申請しなければ補償金額が解らない補償の下に「自粛要請」。

 マスコミ?は,それに反した人を極悪人に……。

 行政は,国民が希望したPCR検査に応じてくれないにも拘わらず……。

 また,「自粛」する国民を褒めたたえた大臣まで……(彼は今のままでは選挙に出る資格がないのでは)。

 さらに,補正予算の規模を自慢して,その内容や実効性に無頓着な総理大臣やそれを取り巻く政府高官。

国民はどうでもいい,選挙で多数を占めればいい!

政治と行政が一体化している!

 という姿勢・体制に疑問を抱いた方や,少し気づき始めた方が現れ始めています。

 

 国民は国を創り,国は国民のためにあり,国は国民に責任を負うと同時に,国民は国に責任を負います。

 

 そのような当たり前のことを再認識させてくれました。

 その意味においては,「悪者」とは呼べないかもしれません。

 

 しかしながら,感染者の苦しみ,亡くなった方の無念さ,遺族の悲しみを思うと,あまりにも多くの犠牲を払ってしまったことに胸が痛みます。

 

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新型コロナウイルスから学ぶ(番外編)「自粛」要請ってあり?

「自粛」の意味

 近年,国民にこれほど関心事になった言葉はないかもしれません(ごく一部の方々には,「遺憾」「丁寧に説明」「説明責任」などの語に,関心をもって頂いているようですが)。

 自粛とは、自らすすんで行動や態度を慎むこと。過ちを犯さないよう慎重に物事を進めることである。例えば、軽はずみな言動をしないようにする、度を越さないよう節制するときなどに使われる語です。

 「要請」の意味

 要請とは,必要なこととして、実現を願い求めること。必要なことが実現するように、願い求めること。用例としては,「援助を-する」などです。

 以上から,「自粛」と「要請」とは,「自らすること」と「他者への働きかけ」ということを意味し,本来,合成語になり得ないはずの語である(故事成語を除く)。

 

 行政が「自粛」を国民に「要請」する例として,『(小学校の)卒業式の華美な服装を自粛するよう要請する』場合を考えてみましょう。

 卒業する児童の服装が華美になることに対して,小学校から華美にならないように保護者に自粛を要請した事例。命令はできないが、保護者に配慮を求める、遠慮してほしいといった使い方です。

  上記の例は,行政が国民に「自粛」を「要請」する限界かもしれません(反論の方が多そうですが)。

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新型コロナウイルスから学ぶ(8)「パニック」になるか!

 専門家会議の議論?の中で,発言を発表しなかったのは,

国民がパニックになる

からが理由であることが明らかになりました。

どこかで聞いた「パニックになるから」

 それは,福島第一原発事故からの避難の時に,正確な情報を伝えなかったことの言い訳でした。

 あの時は民主党政権

 その民主党政権時代を,こき下ろしていたA総理・自民党政権

 「おまえもか!」と言わざるを得ません。

 

情報により国民は「パニック」になるだろうか?

 歴史的には,

一揆米騒動など

がそれにあたるかもしれません。

 しかしながら,それらとは質が異なると考えます。自分の命を守るため,という意味では共通しますが,為政者や米問屋という目に見えるものに対してのそれでした。

 原発放射線新型コロナウイルスは目に見えないものです。にもかかわらず,為政者は「パニック」を想起しました。

 それはなぜでしょう?

 一見,その理由は,同じようにも……。しかしながら,異なるのではないでしょうか。*以下には,誤りがありそうですが……。

 民主党政権は,国民を信頼できなかったからです。それに対し,今回は「経済」を言い出せば,国民を黙らせることができるという驕りからです。

 いずれの理由であっても,国民が犠牲になることには変わりありません。

 そして,その政権を選択したのは,国民です。投票しなかった国民はもちろん,たとえ反対票を投じた国民であっても,国民は「平等」に責任を負うのが,民主主義ではないでしょうか?

 民主主義は時間と労力を要するだけでなく,多数決等の欠陥も多々あるようです。それを補うことができるのは,政治ではなく,国民です。

 そのためには,国民が自分以外の他者に対して,ちょっと想像力を働かせることが必要でしょう。

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新型コロナウイルスから学ぶ(7の2)平等か,それとも分断か?

 しかしながら,持続化給付金やGo toキャンペーンでは,経済活動再開の本気度を疑う事態が明らかになっています。

 前者では,請け負った事業者が中間搾取をするだけでなく,再委託・再々委託等によりある一定のグループに報酬がいきわたるように組織され,後者では,高額の報酬が前者にも登場するある事業者のみが支払われるとのこと。

  新規事業者には一律に,既存の事業者には規模に応じて比例配分した額を,課税に奔走する国税庁・税務署を通じて振り込ませれば,前述の報酬に回すことなく,それこそ,「真水」の経済対策です。額に問題があれば,税務署で是正することもできます。

 分断は,差別を生じさせることになります。日本社会に,新たな分断・差別は不要です。それでなくても,社会には見えない差別や意識されていない差別が,実は蔓延っているのです。

 かといって,全国民がすべての点において同じ価値観・思考を持つということではありません。ある部分の価値観・思考が異なっていても,ある部分においては価値観・思考を共有するということです。

(まとまらない)まとめ

 医療関連品は,国内生産施設を確保し,ある程度の備蓄も。観光産業は,インバウンド頼みではなく,基本的には国内消費で維持できるレベルに。

 言及できませんでしたが,自国のものづくり産業(農・水・工)の育成・発展を。

 また,自粛頼みではなく,法律に基づく行動制限や損失補償の必要。なお,信頼される政府による一時的な自由の制限は受け入れられる余地があるのでは。

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新型コロナウイルスから学ぶ(7の1)平等か,それとも分断か?

 誰もが感染の可能性があることから,ウイルスは平等と言えます。
 しかしながら,感染が疑われる濃厚接触者のPCR検査については,どうだったでしょうか?
 コロナ対応の政府関係者がその重要性ゆえに,間髪を入れずPCR検査を受けることができたことは納得するとしても(異を唱える方もいらっしゃるでしょうが),そうでない単に政府高官自身とそのご家族,政治家自身とそのご家族については,知る術(すべ)がありません。
 志村けんさんや岡江久美子さんは,残念ながら故人となってしまいましたが,単に持病だけがその死の誘因とすれば,悔やまれてなりません。

日本には,高等?国民なるものが存在するのかもしれません。

 補正予算(一次,二次)と成立し,持続化給付金等が申請により給付されることになりました。
 「スピード感をもって」「必要なところ(家族経営など資金繰りに苦慮,資金が枯渇)」にという掛け声とは裏腹に,スピード感はなく,必要なところには行き渡っていないようである。
 給付は申請の6割超に達しているとの政府発表に対し,申請に4割の不備があるとの報道。まるで,スピード感がない原因は申請者にあるよう!

 なんと,申請に不備があるとの指摘が,申請から2週間後に申請者に届くという
スピード感!

不備のない申請者とは?


事務に長けた方がいらっしゃる企業であることは,想像に難くありません。

 
それに引き換え,そのような方がいらっしゃらない企業とは?

法人とは名ばかりの会社,ほとんど家業として事業を営んでいる方や,個人事業主フリーランスの方でしょう。

 このような方の申請をサポートする制度もできましたが,経済活動の再開となった現在,新たに時間を要することになってしまうので,そのサポートを利用することすら難しくなったのではないでしょうか?

 このようなことから,新型コロナウイルスは,少なくとも

小企業において,経済活動からの離脱という新たな分断

を生んだようです。

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>