巷(ちまた)の学校blog

学校等では教わらなかったことを学び,賢い市民生活(家庭,仕事など)を営むためのブログです。ビジネスにも役立つかも。時には,就職や小論文にも言及。

教員だった頃(1)

 教員だったころの話です。先輩教員にたくさん教わったのですが,それを後輩?に引き継がずに退職してしまったので……。もし実践なさったとしても,その結果は自己責任でお願い致します。

  新年度が始まります。新入生は期待と不安を胸に,在校生は新担任や誰と同じクラスかなどに……。

 この時期,入学式・始業式の前,担任として私がやったことは,写真を使って,名前と顔を覚えることでした。特に,新入生の場合は驚きます。

 そして,その日に(個別に話したことや個別の連絡等で)関わった児童生徒のメモを残します。バインダー式のノートなどを利用しました。

  教室の机や備品の点検も大切です。この点に関しては,前の担任の方によっては作業量が大きく異なることになります。修理が必要な場合には,事務に早急に連絡が必要です。

(今でもこのような語があるかどうか解りませんが)生徒理解やクラス運営などにはもちろん,忙しい年度末の書類作成にも大いに役立ちました。

 

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言葉はどこからやってきて,どこへ行くのか?(3)

「スピード感をもって」

 この言葉は誰から発せられた言葉でしょうか?

 それは,行政に携わる方がおっしゃった言葉だったような……。

 

 早くしなければ,取り組まなければならないことがあったにも拘わらず,それができていない,これからすぐ取り組んで,良い成果をあげると意味でしょう。

 また,「スピード感をもって」の「もって」を「持って」と考えると,手段・方法ですから,本来は「以て」(持ちての促音便)ということでしょう。その意味では,「スピード感をもって」は「迅速に」と言い換えが可能なようです。このような解釈のネット記事もありました。

 

 しかしながら,ここではこの「感」に少々こだわって考えてみたいと思います。

 今風に考えると「感」は「~という感じ」,つまり,断言を回避する,ぼかすための語感を形成するものではないでしょうか?それらは「解放感」「達成感」「違和感」「緊張感」とは明らかに異なります。

 発話者が「スピード感をもって」と言っても,なんら迅速に対策を講じない,迅速に良い結果を出せないことがそれを裏付けているように思います。

 すなわち,「スピード感をもって」は「迅速のような感じの手段・方法で」という意味だったのです。

 愕然とする方が,私以外にいらっしゃらないことを願って止みません。

 

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言葉はどこからやってきて,どこへ行くのか?(2)「丁寧に説明~」

「丁寧に説明~」

 当然,国民に解るように説明してくれると,誰もが思います。

 しかしながら,「丁寧に説明」というフレーズが発せられた途端に,まるで丁寧な説明」が終わったかのよう,今「丁寧に説明」した様相を呈することになってしまいました。

 

 同じ言語を使用していながら,両者が同じイメージを共有できない状況は,どうして生まれてしまったのでしょうか?

 その理由は,同じ言語を使用していながら,世界が異なるからです。そして,言葉の持つ意味も,言葉から生まれるイメージも異なるのです。

 そうだとすれば,国民?とは違う世界で生活しているにほかなりません。国民のためにあるはずの民主主義の諸制度,国会の議員や行政の担い手が国民と異なる世界に生きている。

 こんな状況の国に生まれたことの不幸を嘆いていても始まりません。そして,そのような国にしてしまったのもまた国民だからです。

 食糧の不足を補うつもりが,物質的な豊かさ,便利さまでを追求した結果なのかもしれません。

 足るを知る(自己探求の意でなく),を忘れて,貪欲に金銭的欲求に明け暮れた結果かもしれません。

 お上から押さえつけられることに慣れ過ぎた民が,箍(タガ)が外れてその進むべき方向を間違えたとも言えそうです。

 新たに築く時期がありました。方向を是正できる機会もありました。前者は明治維新で,後者は敗戦後です。しかしながら,前者の時期には,多くの国民が無知?,後者の機会には,多くの国民が貧困に喘いでいました。

 今後,共通の言語を使用しながら,言葉の共有に向かうのか,一層の乖離に進むのか?私には判りません。

 

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言葉はどこからやってきて,どこへ行くのか?(1)

 日本語を使用する人数は,世界で10番以内に入るそうです。そして,似ている言語はほとんどなく,その起源もよく解っていないようです。

 いずれにしても言葉は生活の中から生まれ,ある地域において言語としてのまとまりをもつに至ったのでしょう。

*ここでは,言語はある程度の集合体,言葉は個人のものという程度の定義で進めさせて頂きます。

 

 近年,その重さを失ったり,意味やイメージが異なる用いられたり,それらを

失ってしまった言葉がいくつかあります。

 

*言葉に軽重という概念を持ち込んではいけないとも考えましたが,ここでは公の場で用いられる場合くらいの理解でお願い致します。

 

「謝罪」

 自己の非を認め,わびることです。

そこに,今後は悔い改めるという意味をも読み取ってしまうのは,私だけでしょうか?それは「ちょっとの想像力を働」かせ過ぎと言われてしまえばそれまでですが……。

 しかしながら,「謝罪」に対して「許す」という対応とをセットに考えると,私の見解が強ち間違いとは言えないのではないでしょうか?

 なぜなら,「謝罪」はそれのみで完結する言葉ではなく,「謝罪」する相手があって成立する言葉だからです。

 ある業界(議会議員)の方が「謝罪」会見で話した内容に嘘があって,さらに「謝罪」会見を……。あの方は誰に対して「謝罪」しているのでしょう?

 ある県で裁判になっている国会議員の選挙違反事件(一部確定)に関連した地方議会議員,それ以前に,ある地域で政治資金記規正法違反事件?の地方議会議員の「謝罪」にはその向こうに,県民・市民・町民?が散見されるものもありましたが……。

 

 「謝罪」が自己で完結した場合,「謝罪」の向こう側に人が存在しなければ,おのずとそれは「軽く」なるのも必然なのかもしれません。

 一度,その「重み」を失って軽くなってしまった言葉は,ある地域で浮遊し続けるしかありません,いつか人によって「重み」を与えられまで。

 それが言葉の宿命なのかもしれません。

 

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1周年の御礼!

ブログ『巷(ちまた)の学校』は1年を迎えることができました。

読者の方,覗いて下さる方,お読み下さる方は,いずれも少数ですが,その数少ない方々に感謝申し上げます。

多くの読者を得られるような内容ではありませんので,細々と続けて参りたいと思います。

今後ともよろしくお願い致します。

 

他に,こんなブログもしています。

https://ohenstuff.hateblo.jp/

口が裂けても言えない!

 どこかの総理大臣の息子さんが,監督官庁の役人を接待し,便宜を図ってもらおうとした?ことが問題になっています。もしかすると,すでに何らかの便宜を図ってもらったのかも?

 

 TVの報道で,国会議員が総務大臣?に他の事業者に影響が出ているのではないかという質問をすると,総務大臣は?影響等があったという話は聞いていない旨の答弁をしていました。

 

 どこかの事業者が影響を受けていたとしても,それで「影響を受けた」と言えるでしょうか?

 

 もし「影響を受けた」と言ったら,どうなるでなるでしょう?

 総理大臣の息子さんが接待で勝ち取った事業内容に対して,「影響を受けた」と言うことができる事業者があるでしょうか?

 「影響を受けた」と言えば,息子さんが勤める事業者に便宜を図ったことが明らかになり,金額が少ないものの贈収賄そのものに……。そして,監督官庁である総務省に批判が……,窮地に追い込まれることでしょう。

 

 しかしながら,そんな事業者が現れることは決してありません。

 

「影響を受けた」と手を挙げた事業者は,総務省総務大臣であったことがある総理大臣からどんな仕打ちを受けるのでしょうか?放送関連事業は,継続してナンボという世界です。そして,その事業者が存続する限り総務省の監督が続くことになります。

 

そうだとすれば,「影響を受けた」とは

口が裂けても言えない

のです。

 

 とはいっても,「影響を受けた」と言えない事業者を責めることはできないでしょう。なぜなら,その事業者も被害者にほかならないからです。

 

 総理大臣が,以前,総務大臣に就任したときに,息子さんを大臣秘書官に任命したことが今回のような出来事を生んでしまったと考えているのは,私だけではないでしょう。

 

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政府に「座布団一枚」か?(2)

 政府の要請自体に問題があったのではないでしょうか。

 その理由は,不要不急の外出を控えることと飲食業の時短営業とが,矛盾しているからです。不要不急の外出を控えることと整合する要請は,飲食業の時短営業ではなく,ほとんどすべての業種の休業のはずです。

 そのために「ちょっとの想像力」は停止,機能不全に陥ってしまったのです。

 

 このように政府が国民の「ちょっとの想像力」を奪う(停止,機能不全など)事例が,特に新型コロナウイルス対策と機を一にして頻発しています。その多くは,感染予防対策と経済政策という一見両立しない命題だからかもしれません。これについては,別の機会に譲ります。

 

 政府が少なくとも国民に誤解があると気づいたなら,その時点で訂正を求めるのがスジではないでしょうか?誤解をそのままに,政府の非を認めたくない場面での誤解発言は,残念・不愉快にほかならないと思うのは私だけでしょうか?

 

 政府・為政者を責めても始まりません。国民,私を含めていっそう「賢民」になる必要があることを痛感した一コマでした。

 

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政府に「座布団一枚」か?(1)

不要不急の外出を控えては,

飲食業の時短営業開始の午後8時から外出を控えて下さいではなく,

それ以前の時間帯からであることは想像力で。

国民に誤解が!

 

この政府見解に,以前にもあった国民に誤解がと同様に,ご立腹になった方がさぞかし多かったのではないかとお察し申し上げます。

 

「ちょっとの想像力」を標榜している私は,一瞬「これは一本……」「座布団一枚」と思ってしまいました。

しかしながら,その時点において,私を含めて多くの国民の関心が時短にあったことを考えると,誤解との指摘は当たらないと考えます。これは,多くの報道機関が時短の対象となった飲食業の影響に多くの時間を費やしていたことに起因します。政府もそれを認識していたにも拘わらず,不要不急も同様に時間を割いて下さいと要望することもなく,それを放置したまま。そして,頃合いをみて誤解が……。

 

*飲食業がその対象になったことは,改めて考えてみます。

 

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2021年1月3日の出来事!

 年末年始のわが家は,貧しい食事から解放されて……(この記述を妻は知らず),二人とも太っちょになった自覚から,2日には往復30分ほど歩いて初詣にいたものの,3日の午後,四つのウォーキングコースの中の一つ,バイパスコースに。

 国道を歩いていると,バス停の側に杖を持ったご老人(男性,以下Mさんという)がバスを待っている風,国道のバス停はほとんど利用する人がいません。Mさんの横を通り過ぎようとすると,私に近づいて来て「すみません。今何時でしょうか?」と聴かれました。私が歩くときにはスマホを持っていないことを知っている妻は,すぐスマホを取り出して「3時5分です」と代わりに答えてくれた。するとMさんは「2時間くらいずっと歩いているです。家が分からなくなって」と言い始めた。Mさんが背負ったリュックから,破魔矢の一部が見えた。

 Mさんの話を総合すると次のようなことが解った。用事(おそらく初詣)が終わって,家に向かって歩いていたが,自分の家が分からなくなってしまった。そして,さらに探し回って,この辺まで来たらしい。そして,誰かにバスに乗ることを勧められ,バスを待っているという。

 バスの時刻表を見ると,もうすぐバスが来る時間であった。バスに乗るのはいいけれど,心配になった。次はバスの終点(営業所)で,乗り換えなければならないから。家の近くのお店を尋ねると,今歩いてきたところだったので,そこまで連れて行ってあげると申し出たが,もう歩くことができないと言う。

 それなら,バスの運転手に家の近くを通るバスに乗り換えも,頼まなくてはと,Mさんと一緒にバスを待つことにした。

 バスが来た。しかしながら,それが待っているバスかどうかはわからなかった。

 バイパスのバス停は,迂回路にある。バスはその道に入らず通り過ぎようとしたが,営業所の表示が見えたので,手を振った。運転手はそれに気づき,迂回路の出口の所で停止した。

 私はバスまで走った。その途中,振り返ると妻はMさんと一緒に歩いて来ていた。

 運転手がバスから降りてきて,顔の前で両手を合わせてゴメンをしていた。私は,事情を説明した。Mさんと妻も加わった。

 Mさんは,バスに乗り込む前に,何度もお辞儀をし,お礼の言葉を繰り返した。

 座席に座ったMさんの姿は見えなかったが,妻と私はそのバスを見送った。

 

 正月から善いことをした。

 

 妻と歩きながら,Mさんのことを話しながら,

   子ども叱るな 来た道だから

   年寄り笑うな 行く道だから

ということばを思い出した。

 

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音読の仕方,上達法(2) ちょっとの想像力

その2

 先の首相が言い間違えたところは,頁の変わり目でした。「対策を徹底的に行います」を「対策を限定的に行います」と。それを聞いた議員から「ウア~ッ」と声が上がりました。

  その理由は,人が「ことば」「文」に接したとき,意識・無意識に拘らず,ちょっとの想像力を働かせて,頭の中に「イメージ」するからです。

 実は,聞く側だけでなく,「ことば」や「文」を発音する側も「イメージ」しなくてはならないのです。それが,話す速度や「読点」に影響します。話す側の「イメージ」と聞く側のそれとの一致が,『伝わる』ということです。

  どこかの首相の発言は,「伝わらない」「伝わってこない」と言われています。もしかすると,発する「ことば」にちょっとの想像力を用いず,「イメージ」がないままに発言しているのではないでしょうか?そうだとすれば,当然の結果なのかもしれません。

  「国民」とかのことばに,なんら「イメージ」しない方が首相になっている国の国民は……。

 そして,そのような方が政治家になっている国の国民は……。

 最終的には国民に……。

 

 「ことば」「文」に接したときには,ちょっとの想像力を働かせて,「イメージ」しましょう。

 イメージできない場合には,ことばや文に問題がありそう。また,「伝えたい」場合には,それなりの工夫を。その内容にズレがある場合には「イメージ」の修正が必要に。

 

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音読の仕方,上達法(1) 目と発音

 ここでは,どこかの首相の演説の良否を問うものでなく,純粋に音読について学びます。

 

 ある国の首相が「徹底的」と言うべきところを「限定的」と言ってしまった。このような間違いが起こる原因は二つあります。

 

その1

 目で見た文字をその都度,発音していることに起因します。その究極は,見た文字を一音ずつ発音することで,音にはなっても「ことば」や「文」にはなりません。

 それでは,音読を職業としている方,アナウンサーの音読はどのようにしているかを紹介します。以下は,朗読でも活躍された方の話です。

 目は,発音している部分のかなり先を見ているそうです。多い時には数十文字も前を。

  通常は,十数文字で充分でしょう。それも,①読点や②句点や③それ以下でも意味を聞き手がとれる程度で。習熟していくと,実は③が最も難しいことに気づくことでしょう。最初は,自立語+付属語(例:わたし+が)レベルから。

 ご自分やお子さんの音読を点検して下さい。もしできない場合には,訓練でできるようになります。ただし,年齢等により努力の多寡は異なります。

 残念ながら,先の首相は,官房長官?時代からあるいは学校,小学校の時に身に付けなかったのかもしれません。もし身に付いていれば,頁の変わり目であっても,あのような間違いは起こらなかったでしょう。ただし,身に付いていなくても生きることには何ら支障がないようです。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>

「%」は恐ろしい?

 病床確保数に対する重症者の割合は,50%以下の数字を見せられ,医療がひっ迫していると言われてもピンとこない。感染者数のピークに遅れて,重症者数が増加し,医療崩壊が起こると言われても,ますます?

 

 上記の病床確保数は100~200床で,その割合が問題になっています。

その50%は,50~100床です。

 

 問題は,病床確保数ではなく,実病床数に対する使用率?との訂正が至るところでなされ,また「医療崩壊」がクローズアップされることになりました。そして,指定病院?の実病床数に対する使用率の割合が,70~80%と聴いて驚いてしまいました。

 

 上記の実病床数は10~20床で,その割合が問題になっています。

 その70%は,10床なら7床,20床なら14床。80%はそれぞれ8床,16床です。

 

 都道府県の感染者数が毎日100人,そのうち重傷者が3%なら……。

重症者の入院期間が仮に20日で,ある都道府県の感染者数が10人で,重症者が10日に3人……。

 

 以前に,「%の怪」として書きましたが,分母の数が大きい時にはそれなりの効果を発揮します。もちろん,その場合にも留意しなければならない点を指摘しました。

 今回のように,分母の数が小さい場合には「%」を使ってはいけないと考えます。

特に,百分率という名称が関係しているかもしれませんが,分母の数が100未満の場合には,実体から離れてしまう可能性があります。

 

* 以前には,100からあまりにもかけ離れた大きい数を分母にすることにも問題がある点を指摘しました。もしかすると,「%」には分母にすべき適切な数の範囲があるのかもしれません。

 

【補】

 「%」は,いくつかに分かれているモノについて,全体に対する各割合を把握するには適していますが,単純に使用率を把握するには適さないということが解りました。

 また,繰り返しになりますが,全体の数が少数の場合,つまり分母が10とか20とかの場合も,その使用には注意が必要です。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>

ちょっとの想像力も使い方を誤れば……

旧年中はお読み頂き,有り難うございました。

本年もよろしくお願い致します。

 

(古くなってしまいましたが)12月22日記

 

 Go to トラベルから大阪市着と札幌市着が除外され,その出発が自粛に。また,65歳以上の自粛が要請された23区?そして,様々な都市で除外や自粛,飲食店の営業の時短要請……。

 

 現在,最も傾聴に値すると思われる?のは,「コロナの感染は人の移動によってもたらされるのだから,人の移動の盛んな若い方(20・30代?)の移動を止める又は抑制することが,感染拡大を防止する最良の政策」という意見です。

 

上記の意見について考えます。

 

 人出の多い所でのTVのインタビューに「感染者が増加しているのは解りますが,身近な人や家族で感染した人がいないから,大丈夫かな?」

と答える若い方が多いようです。

 

 このような報道を目にすると,「自分の友達や家族が感染したときを想像できないのか?ちょっと想像すればわかることだ!」そして,その想像力が欠けているから,問題なのだとも言えそうです。

 そのよう指摘は,視覚的理解に慣らされてしまった若い方を始めとする多くの日本国民に対する評価・批判として,的を射ているようにも思います。

 しかしながら,想像力を働かせて状況を把握し,それを根拠に「移動を自粛せよ」という論法には,ついていけませんし,つく必要も感じません。

 なぜなら,その論法は責任の所在を曖昧にする「忖度」?(本来はそんなに悪い意味で用いられる語ではなかったはず)となんら変わらないからです。

 百歩譲って,人々の移動の「自粛」を認めることができるかもしれません。それには,移動が必要な方のPCR検査等という前提が必要でしょう。

 しかし,営業時間の短縮や休業に「自粛」を求めることには反対です。なぜなら,憲法でも保障している職業選択の自由や営業の自由を侵害するからです。そうだとすれば,一時的にせよ,それらを侵害するものである以上,補償をセットにした法律によらなければならないと考えるからです。

 

 確かに,「ちょっとの想像力」を働かせて状況・情況を把握することは,私のこのブログの根幹をなすものの一つですが,責任の所在を曖昧にして他者に行動を促すあるいは求めることではありません。

 私のブログは,出来事をさまざまな視点から眺め,「ちょっと想像」を働かせて状況・情況を把握することの一助に過ぎす,その後の各人の行動は,自己責任によるものです。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>

人生,二度目の入院(6)高額療養費の自己負担限度額について,75歳以上についても

 1か月の医療費の自己負担額が一定限度(自己負担限度額)を超えた場合,超えた部分について,申請すれば後から高額療養費として給付されます。

 事前の申請を行い,保険者(協会けんぽ,組合健保,国民健康保険組合,お問合せも各窓口で))から発行される限度額適用認定証を医療機関の窓口に提示すると,支払いは自己負担限度額までとなります。

 なお,同一世帯で,1か月に21,000円以上の自己負担額が複数ある場合は,世帯合算して自己負担限度額が計算されることになります。

  自己負担限度額は,標準報酬月額(低所得者も)と年齢(70歳未満,70歳~74歳)により異なります。

 以下のHPで,ご自身の自己負担限度額をご確認下さい。

高額な医療費を支払ったとき | 健康保険ガイド | 全国健康保険協会 (kyoukaikenpo.or.jp)

  なお,75歳以上の後期高齢者については,保険者が後期高齢者医療広域連合に自動的に移行しますが,自己負担限度額は,70歳~74歳と同様になります。

高額療養費制度の対象となる医療費,ならない医療費

<なる>健康保険が適用された,つまり,3割負担ですんだ医療費

<ならない>差額ベッド代,その他の諸費用や自由診療の医療費

 

【参考】

 要介護・要支援の認定を受けると,それぞれ居宅サービスの利用について,月額の支給限度基準額が決まります。利用者は原則費用(食糧費・住居費等を除く)の1割を負担(所得により,2割・3割負担あり)します。支給限度基準額を超えた分は,全額自己負担となります。ただし,介護保険の自己負担額が一定額を超えると,超えた金額が高額介護サービス費として後から払戻しを受けることができます。

 また,同じ医療保険制度に加入している世帯員の医療保険介護保険の自己負担額の年間合計額(8月1日~翌年7月31日までの1年間)が自己負担限度額を超える場合は,超えた額が負担額の比率に応じて,介護保険からは高額医療合算介護サービス費として支給されます。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>

 

明年もよろしくお願い申し上げます。

 

人生,二度目の入院(5)あるとすれば「学び」はここ?

会話とはそれほど難しいものでしょうか?

あいさつなら,可能でしょうか?

 

 コミュニケーション能力という言葉が出現してから,久しい。「能力」として身に付けようとすることが,反って,その能力そのものを阻害することになってしまいそう。

 

 視覚障がいの方が駅のホームから転落して死亡したとのニュースが先日もありました。ホームドアの設置が予定されていた駅であったと。転落事故について調べると,2010年(平成22年)からの統計しかありませんでした。そして,議論はハード面での解決を目指すもののようでした。

 白杖を持っていらっしゃる方にお声掛けすることや,視覚障がい者が自ら声を上げることで危険を回避することは,一緒に社会生活を営む上で当然のこと,あいさつのようなものだと私は思います。

 

 以前,新宿西口で,白杖を持った婦人が歩道から車道に突き進んでいくのを,2・3人が止めに入って歩道へ戻した。そこはちょうど私が歩いている目の前だった。どこへ行きたいのですかと聞くと,南口で友人に会うということだった。デパートを通るその通路は学生時代にはよく使ったが最近は通ったことがなかった。急いではいないので,一緒に行きましょうと言って,南口まで行った。

 

 点字ブロックやホームドアの設置,盲導犬で終わるのではなく,悲しい事故が起きないように一緒に安全な社会生活を送りたいものです。

 

お読み頂き,有り難うございました<(_ _)>